『ファニー・ヒル』ジョン・クレランド


ファニー・ヒル 快楽の女の回想 (平凡社ライブラリー)

 『ファニー・ヒル』(Fanny Hill)。原題は『Memoirs of a Woman of Pleasure』。直訳すると『遊女の思い出』。日本では主人公の名前であるファニー・ヒルが書名として一般化している。
 作者はジョン・クレランド(John Cleland 1709年9月24日~1789年1月23日 クリーランドと発音するという説もある)。小説、戯曲、批評などを書いたいわゆる三文文士。本書は1748年に獄中で執筆されたが、最近の研究によると作者が二十歳前後のときにはすでに大部分が完成していたらしい。

 この作品は官能小説の古典的名著として有名。
 1748年11月と1749年2月にイギリスで出版され、1749年11月には著者と出版者がはやくも逮捕されている。本書が出版後すぐに発禁処分になった直接の原因は、男性同士の同性愛描写にあった。当時のイギリスでは、女性同士の同性愛に対しては比較的寛容であったが、男性同士の同性愛(sodomy)は厳しく糾弾され、死刑に値する罪だった。作品中で主人公がソドミーを憎悪しているが、それは当時の女性の一般的な考えであった。
 1750年にソドミー部分などをカットした修正版が出版されたが、オリジナル版が地下出版物として世界中に流布し、性愛文学のバイブルとして密かに愛読された。
 約200年後の1963年、米国のパットナム社が正規出版に踏みきり、1966年、連邦裁判所で猥褻文書に当たらないという判決が下された。その後、世界各地で公に出版されるようになったが、違法判決を受けることが少なくなかった。現在ではオリジナル版がさまざまな出版社で販売されている。

 本書は書簡体小説で、前巻が第一の書簡、後巻が第二の書簡という体裁をとっている。ある奥様に対して主人公のファニー・ヒルが若かりし頃の思い出話を語っているのだが、その話題の多くが性交渉に関するもの。自分の性遍歴をあからさまに語っている理由は、最終ページを読めばわかるようになっている。
 ストーリーは以下のような感じ。
 15歳で両親に先立たれた主人公ファニーはロンドンで働こうとするが、到着早々騙されて娼館へ連れて行かれてしまう。先輩から同性愛の指導を受けてアクメに達することを覚え、いよいよ処女が売り物にされてしまうというとき、運命の男チャールズに偶然出会って逃げ出すことに成功する。チャールズに処女を捧げて愛人として生活を始めるが、ある理由で別れねばならなくなる。
 路頭に迷いそうになったとき、娼館主のコール夫人に援助を求め、パトロンを何人も紹介してもらい、親しい仲間もできる。この間、主人公はさまざまな性的な体験をして人間的に成長する。
 18歳のとき、コール夫人が娼館を閉じることになり、ファニーは一人暮らしを始め、ある老人と出会って莫大な遺産を手にする。その後、チャールズと再会して正妻となり、子宝にも恵まれて幸せな人生を送る。

 この本を初めて読んだのは二十歳の頃だったと思う。『一娼婦の手記』というタイトルで、訳者は中野好之。現在は新版が『ファニー・ヒル』のタイトルでちくま文庫の1冊として出ている。
 凄いと感心したのは、直接的な表現がほとんどないことに対してだ。文庫本にして約300ページのボリュームがあり、そのうち100ページ分が性描写に当てられているのだが、徹頭徹尾婉曲的で上品な表現に終始している。それでいて、その具体的シーンを容易にイメージすることができるのだ。本書が世界中で密かに愛読されつづけた理由は、ここにあると思う。
 いちばん好きなエピソードは、乱交パーティーの前に行われるファニーの仲間3人(エミリー、ハリエット、ルイーザ)の処女喪失話。本人が語る体裁がとられているため、臨場感満点。そのときの心情が事細かに説明されていて非常に興味深い。
 面白いなあと思ったのは、初夜の売り方。娼館は女を処女として金持ちに高く売りつける。ファニーも処女喪失後にもヴァージンガールとして買われるのだが、パトロンに処女と思わせる方法がとてもユニークなのだ。思わず「なるほど」と唸らされた。今回読み返してみて、乾くるみの『イニシエーション・ラブ 』を思い出した。この小説では童貞君が騙されるのだが、もしかして本書を参考にしたのか、と考えてしまった。

 現在、数種類の翻訳本が出ているが、一押しは平凡社ライブラリーの小林章夫訳『ファニー・ヒル』。平易な新訳で読みやすい。
 そして、一押しする最大の理由は、ソドミーのエピソードが訳出されていること。吉田健一訳の河出文庫版や中野好之訳のちくま文庫版は、1960年代に出版された修正版を底本にしているため、発禁処分を喰らう原因となった描写が訳出されていないのだ。
 また、本書はインターネットで原文を無料で読むこともできる(原文はコチラ)。訳本と対比しながら読んでみたが、「この表現ではこんな英語が使われてたんだ」なんてことがわかり、とても面白かった。

  

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