歪形の家庭性活(終)

《第2の手記》

  義父と初めて関係をもったのは、1986年3月のことです。
 当時の私は正しい判断ができませんでした。抵抗はしましたが、籍を抜くこともなく、義父の愛人になったのです。
 はじめは離れの和室で愛されましたが、そのうち本宅の寝室やプレイルームで抱かれるようになりました。生殖のためといえるような内容ではありませんでしたが、愛娘を人質にとられているような状態でしたから、嫌々ながらも従うしかありませんでした。
 その後、義母の美代といっしょに愛されるようになりました。義父と義母は私のことを“M女”だと言い、縄で縛ったり鞭打ったりしました。
 しかし、義弟のときと違い、懐妊後はとても大切にされました。セックスは強要されましたが、お腹の赤ちゃんに影響がないよう配慮がなされました。

 1987年9月1日、長男の大祐{だいすけ}が生まれました。この日はくしくも義父の56回目の誕生日でした。
 これで義父から解放されると思いましたが、それははかない夢でしかありませんでした。義弟のときと同じです。
 1988年9月1日、長男の1歳の誕生日が盛大に祝われましたが、この日を境に私はまたメス奴隷としての生活を送ることになりました。
 この日、私は義父の友人たちに輪姦されました。貸し出されるようにもなりました。まさにセックス・スレイブです。

 何度も逃げだそうと思いましたが、娘と息子を置いて自分だけ逃げ出すことはできませんでした。子供たちのために自分さえ我慢すればいいんだと言い聞かせました。
 地獄のような日々でしたが、磯谷家の財産がすべて里奈と大祐のものになった今では、我慢したかいがあったと思っています。
 神は私をお見捨てにならなかったのです。

 磯谷家の人間を死に追いやったことに対し、罪悪感はありません。当然のことだと思っています。
 夫の磯谷隆嗣は何度も何度も私を殴り、私は自殺寸前まで追い込まれました。だから、事故死に見せかけて殺そうとしたのです。
 しかし、生き残ってしまったため、義弟である磯谷孝次の子供を産まされることになってしまいました。自業自得です。
 私は自分の不幸な運命を呪いましたが、孝次を恨んだりはしませんでした。はじめは孝次も被害者のひとりだと考えていたからです。
 ところが、そうではありませんでした。孝次は兄の隆嗣と共謀し、さまざまな悪事に積極的に関与していたのです。
 子供さえ生まれれば人生が好転すると信じ、変態的な性的要求にも耐えたのですが、孝次の要求はエスカレートするばかりで、これはもう殺すしかないと思い、自宅に火をつけて隆嗣と孝次に焼死してもらいました。私が疑われることはなく、失火による事故死として処理されました。

 多額の保険金が入り、これで娘と二人、自由に生きていくことができる、そう思ったのもつかの間、私の人生にまたしても磯谷家が立ちふさがったのです。
 義父の磯谷作造は、火事の原因を徹底的に調べ上げ、私が犯人であるという証拠をつかんでいました。
 逮捕されたら確実に死刑です。でも、幼い娘をひとり残して殺されるわけにはいきません。実子を殺された父親が許すことなど有り得ないとは思いましたが、娘のために必死になって許しを請いました。
 義父はあっさりと許してくれましたが、義父の子供を産んで磯谷家の後継者を育てることが条件でした。私は従うしかありませんでした。
 あとでわかったことですが、作造は復讐よりも自身の性的悦楽を優先させていました。“妻と嫁を同時に責めて楽しみたい”という悪魔の所業としか思えない行為に夢中になったのです。
 けっきょく私は作造の愛人にさせられ、出産後は性的奴隷として奉仕させられました。
 奉仕の対象は男ばかりではありませんでした。義母の美代や義妹の桃代も、私の心と体をもてあそびました。

 私は里奈と大祐の将来を考えました。
 当時すでに二人とも作造の養子になっていました。ということは、作造、美代、桃代の三人がこの世から消えれば、磯谷家の財産はすべて里奈と大祐のものになります。
 私は作造と美代と桃代を抹殺することにしました。方法は前回と同様です。食後のお茶に睡眠薬を混ぜて昏睡させ、家に火を放って全焼させました。

 今回も逃げおおせると思ったのですが、作造の罠にまんまと嵌まってしまいました。
 作造が不審死を遂げた場合、放火の証拠書類が警察に届けられるよう手配されていたなんて、想像すらしていませんでした。
 でも、後悔はしていません。
 犯した罪は自分の命で償います。
 それではサヨウナラ。